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みんなの参拝記録
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(やまちーさん)
おすすめ度:
0
13
参拝日:2024年10月12日 11:57
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(Na-kiさん)
おすすめ度:
★★★
0
43
参拝日:2023年6月27日 00:00
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(thonglor17さん)
おすすめ度:
★★★★
0
187
参拝日:2022年3月26日 06:59
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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県秩父市荒川贄川1267 |
五畿八道 令制国 |
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アクセス |
秩父本線三峰口 徒歩28分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
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FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
伊弉諾命 伊弉冉命 日本武尊 |
創建・建立 |
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旧社格 |
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由来 |
境内掲示板
猪狩神社社殿
◆市指定有形文化財(建造物)一棟
昭和五十四年四月十六日指定
この社殿は、日本武尊ご東征のおり、この地を荒らす猪の群れを退治された故事にちなみ、伊弉諾命・伊弉冉命、後に日本武尊を合祀した社で、現在の社の棟札には、寛政五年巳四月吉日(一七九三)と示してある。
本殿の造りは間口一間一尺、奥行一間二尺で、一間社春日造に従ったものである。本殿正面には向拝を付し、飛龍の彫刻をはめ、屋根は切妻造りで左右にそりのある照屋根妻入りで彩色を施したものである。
本殿の軒は二重垂木、向拝は疎垂木で、左右に縁を設け高欄を配し、社殿に向って右外側には中国故事に倣う「韓信股くぐり」の彫刻が奉納さ れている。
弊殿は間口一間一尺、奥行三間。拝殿は間口二間三尺、奥行二間、大きな流れ向拝を付した方形造り、軒は二重垂木で垂木には細字で、大般若経の経文が書かれている。拝殿正面と左右には三尺の縁をめぐらし、舞良戸をたて、何か仏寺色の濃い建築である。
なお本殿右横には末社として祀られている稲荷神社の春日造りのお社や彫刻など本殿共に珍重な財産である。
当社の祭は、一月一日「元旦祭」四月第三日曜日 「春祭り」 七月二十日 「夏祭り」 十一月第三日曜日 「秋祭り」、なお祭典後、猪狩山の奥宮で日本武尊が猪を追い払ったときあげた雄叫びの故事に倣い氏子・参拝者たちによる「鬨の声」をあげる神事がある。
秩父市教育委員会 |
神社・お寺情報 |
御神燈 文政七龍次甲申九月(1824)
御神燈 文政十一戊子(1828)
境内掲示板
愛染寺履歴
応仁の乱で焼失したので浄財勧募のために設けられた本願所が元禄時代より幕末まで愛染寺と称して存続しました
しかし明治初年に廃絶しました廃絶後神蹟と称し今日に至って居ります
左の額は愛染寺より拝借の證書を書き写つした額です
正一位武光稲荷大明神
右雖為本宮奥秘依
格別懇願中祀式修封之
嚴璽令授與之
禮祭示慎莫怠慢仍證書
日本稲荷總本宮
愛染寺
安政二乙卯歳三月吉辰
武州秩父郡古池村中
境内掲示板
末社の由来
此処に鎮座せる各神社は当古池の各所に点在してお祀りして有ったお宮を合社して猪狩神社の末社としてお祀りして居ります
宝暦年間神佛混淆の時代僧侶が神社も一緒に支配していた関係上松洗院火災の為めに文献等の焼失により創建された年代は不詳です
明治維新後神佛が分離されて今日に至って居ります
各社の昔の所在地
稲荷神社
祭神 宇迦之御魂命
安政二年五月再建
稲荷神社は参道一の鳥居左の上、通称稲荷山に鎮座されて居りました
秋葉神社
祭神 火産霊神
文献、伝説等なく不詳
熊野神社
祭神 伊弉冉命 事解男命 速玉男命
参道一の鳥居の右横に鎮座されて居り祠の中に青石の棒三本有り
其の長さ一尺五寸より二尺神佐根と言う石棒
諏訪神社
祭神 建御名方命
林道を上る事二百五十米通称湯の本と言う場所の岩の上に鎮座されて居たの伝説
菅原神社
祭神 菅原道真公
寛政二年一月二十五日
平成六年磯田喜義氏再建
林道を登る事百米大きな岩と大きな梅の老木が有りました
大きな岩も林道工事でくづされ梅の老木も枯れて切られて有りませんが岩の上に鎮座されて有りました
当区内諸先輩の御協力により記録出来ました
奉納者
額坂 小柏照之
末社の由来発起者 千嶋章市
加茂下安右衞門謹書
平成七年六月吉日
本殿横掲示
股くぐりの国士無双韓信
韓信の出生と育ち等不明である江蘇省北部の淮陰の農家出身といわれている
「戦えば必ず勝ち攻めれば必ず撃破する」
中国青史無類の名将だがその幼少年から二十才頃までは極貧の中で将来の抱負もなく無頼の暮らしを送っていた財も門閥もなく生業につこうにも伝手もなく彼自身も他人もその天分を見出すきっかけがなかった
彼が攻めたどの戦勝も辛抱強く戦い天分も併せもっていた前線の将である
他人から鼻つまみもの扱いにされ無職の赤貧に耐えた頃が彼の将器を醸成する重要な時期に倉廩(米倉)実ちて礼節を知り衣食足りて栄辱を知る この言葉の切実な意義が四世紀後世の青年韓信には何よりも骨身に沁みたことであろう
そうした時期のこと韓信は空腹のままある河で釣りをして居たが魚はいっこうにかからない それ見て居た布を晒す老女が可愛相に思い粟あきびの粗末な飯を韓信に与えた 韓信この時のはらわたに沁み渡たる食物の量感を生涯忘れなかった あなたのご寄進を忘れませんこの先出世した暁に必ずお礼に伺います 韓信は将軍になった時この誓約を何年か後に果たした
韓信の股くぐり
韓信は年中長靴をはき際立った長剣を背負い一見武者修行者といった姿で咸陽の町を歩いていた
韓信はかなりの背丈と強靭な体格の持ち主であり自分の腕節と胆力に自信ができて武者を志向しはじめた頃と思われる日 人目の多い町角で無頼の若者たちにからまれた 日頃から韓信の風采にけんかの吹っかけ甲斐があると彼らは眼をつけていた ボスらしい若者が前に立ちはだかって言高に挑発した
お前はでけえ柄をして長剣を背負っているが その実は素寒貧の身で身体中は空っぽだろう 人並みの度胸があるならこの俺を殺してみろ でなきゃあ俺様の股をくぐって見ろ 天下の大道で大恥をかくが生命だけ助けてやらあ
まわりには秦の役人、兵士、若い女もまじった人垣ができた
「さあ咸陽には住めねえ大恥をかくか俺を血祭りに上げて見せるか」ならず者は大声でいきりたった
群象は意外というふうに畏怖の声を上げ 続いて舌打ちの気配がおきた
韓信は腹ばう格好で相手の股の下をくぐ抜けた 見事な長剣が人々の日にさながら背負た薪のように見え 薪を背負って相手の前にまかり出る事は最高の謝罪である
「何と不甲斐ない若者だ」
人々は一様にさげすみと失望のつぶやきを韓信にあびせた
この件りは本邦でも翻案されて「恥は一時大志は一生」孫子の兵法を常に遵守した韓信の真髄といおうか 彼はさし迫った情況に冷静に対応したのである
傍目には簡単なようでも当事者にはこの選択は容易ではない 女もみている前で土下座する賢明なる臆病非凡な男気は男といふ動物には至難の技といえよう 韓信は孫子訓えの「三十六計逃ぐるにしかず」沈着に守った
明治二十年秩父郡山田村彫工大島角太郎作
平成十九年三月吉日千嶋章市謹書
寄贈額一式 小柏秋男
新編武蔵風土記稿
秩父郡贄川村
猪狩嶽 村ノ乾ニアリ小名古池ト云ル巽ノ方ナル麓ヨリ崩岩ノ山徑ヲ踏ミ又ハ盤岩ノ曲徑ヲ登ルコト廿五町ヲ經テ頂ニ至レハ僅ノ平地アリテ猪狩明神ノ小祠ヲ安ス社頭ニハ栂松檜ナオ生茂レリ此山ハ村持ナレトモ松洗院ニ託シテ別當ノコトクセリ明神ノ眷屬トテ犬アリ此犬ヲ乞ヒ借リ狐ツキ或ハ猪鹿ノ防ヲナスニ應驗アリトテ此隣ノ村鄕祈誓シテ參詣スルモノ多シ犬ヲ借リルト云ニハ松洗院ニ就テ賽物ヲ納メ護符札ヲ得テ歸ルトソ或說ニ意玄入道監澤落去ノ時石上ノ切所ニテ深井對馬守相サヽヘ其間ニ意玄ハ落去リ深井ハ深手ヲ負ヒ此山ニ登リテ生害シ今ニ神祠ニ武器少シク存セリト聞ケハ寺僧或里老等ニ其事蹟ヲ尋ルニ左アル事ハ傳ヘモナク知ルモノナシ神祠ニハ只白幣ノミ存セリ |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2023/01/03 15:57:06
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