3.6
氷川鍬神社
(ひかわくわじんじゃ)
埼玉県上尾市宮本町1-14
みんなの御朱印
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(tokuさん)
4
御朱印日:2024年4月20日 00:00
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(おがおが1262さん)
6
御朱印日:2024年4月2日 00:00
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(豆助さん)
36
御朱印日:2024年1月28日 00:00
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(かわむ~らさん)
22
御朱印日:2023年3月4日 18:05
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(りんごさん)
21
御朱印日:2022年3月7日 13:30
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(ころもさん)
36
御朱印日:2022年2月23日 00:00
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(まぁくんさん)
29
御朱印日:2021年10月26日 00:00
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(神仏縁日さん)
35
御朱印日:2021年9月23日 00:00
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(たくちゃんさん)
33
御朱印日:2021年9月9日 00:00
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(テルさん)
12
御朱印日:2021年7月31日 00:00
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みんなの参拝記録
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(馬兔猫さん)
おすすめ度:
★★★★
2
17
参拝日:2018年5月3日 00:00
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(りんごぐみさん)
おすすめ度:
★★★★
1
92
参拝日:2020年3月21日 13:50
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(たいようさん)
おすすめ度:
1
15
参拝日:2019年7月13日 19:32
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(がーぜさん)
おすすめ度:
1
16
参拝日:2017年9月19日 00:00
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(おがおが1262さん)
おすすめ度:
★★★★
0
2
参拝日:2024年4月2日 00:00
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(ユキさん)
おすすめ度:
0
0
参拝日:2024年3月2日 15:31
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(まーぼーさん)
おすすめ度:
★★★
0
2
参拝日:2024年2月1日 00:00
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(豆助さん)
おすすめ度:
0
4
参拝日:2024年1月28日 00:00
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(日刀口さん)
おすすめ度:
★★★
0
5
参拝日:2023年12月25日 14:00
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(まっちゃんさん)
おすすめ度:
★★★★
0
0
参拝日:2023年11月3日 15:38
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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県上尾市宮本町1-14 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
JR高崎線上尾 徒歩1分 |
御朱印授与時間 |
|
電話番号 |
048-771-5847 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
豊鍬入姫命(とよくわいりひめのみこと)
稲田姫命(いなだひめのみこと)
菅原道真公(すがわらみちざねこう)
木之花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
応神天皇(おうじんてんのう) |
創建・建立 |
寛永9年(西暦1632年) |
旧社格 |
村社 |
由来 |
【境内入口掲示】氷川鍬神社
氷川鍬神社は「武蔵国足立郡御鍬太神宮畧来」によると109代明正天皇の御代、寛永9年(1632) の御創立と伝えられます。
御祭神は豊鍬入姬命(トヨクワイリヒメノミコト)・稲田姫命(イナダヒメノミコト)・菅原道実公(スガワラミチザネコウ)・木之花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)・応神天皇(オウジンテンノウ)の神で豊鍬入姫命は悩める人苦しむ人の胸中を知りその人のため救いの手をさしのべて下さる神であり、疫病除け、招福、豊作の神であります。
稲田姫命は須佐之男命(スサノオノミコト)の御妃で限りない慈しみと深い母性の愛を表わされる神であり、菅原道実公は学問の神として、木之花咲耶姫命は浅間さまの神さまで、大山祇神という尊い神さまの御子神さまです。
応神天皇は文化神としてのご神徳を持っておられます。
氷川鍬神社は上尾宿総鎮守として広く世人の崇敬を集めた古社であり、通称「お鍬さま」と呼ばれております。
氷川鍬神社の名称になったのは明治41年(1908) の神社合祀以後のことで、それより以前は鍬大神宮という社名であった。
【境内掲示】氷川鍬神社と上尾宿
氷川鍬神社は上尾宿の総鎮守とされ、江戸時代には鍬大神宮や太神宮と呼ばれた。
神社の創始は、童子が警護する御神体の入った櫃(ヒツ)を、中山道の街道筋の人々が「鍬踊り」を踊りながら宿場から宿場へ送り継ぎ、最終的に上尾宿に鎮座したので祀ったという伝承がある。
天明8年(1788)には、神社の境内に聚正義塾が建てられ、上尾宿の人々の教育機関として多くの人々が出入りした。
また、当時の絵図には、神社の周辺に本陣・脇本陣や問屋場など、宿の主要な施設が集中しており、この辺りが宿の中心地だったことが分かる。
江戸時代に宿場として整備された上尾は、明治時代になると高崎線や馬車の整備によってさらに繁栄した。
神社は、明治41(1908)年の神社合祀で、二ツ宮の氷川神社のうち女体社を合祀し、氷川鍬神社となった。
このように賑わいを見せた上尾であったが、宿の大半の建物や記録は、江戸時代末から明治時代初頭にかけて起こった3回の大火や老朽化によって失われた。
しかし、今でも当時の名残を見出すことができる。
屋根の上の鐘馗(ショウキ)様は、大火の際に屋根に鐘馗(ショウキ)様のあった3~4 軒の家が火事を免れたため、その後火伏(ヒブセ)として流行したと言われる。
また、通り向かいの家の鬼瓦が、自分の家の方向を向いていると良くないため、鬼より強い鐘馗様を載せたともいわれている。
上尾宿内の呼称である上、中、下宿は後に上町、仲町、下町となり、この町名や地区割りは、上町はそのまま、仲町は仲町と宮本町に、下町は愛宕として今でも残されている。
上尾市教育委員会
新編武藏風土記稿
足立郡上尾宿
太神宮 宿內ノ鎭守ナリ 神體ハ小鍬二挺アリ 御鍬太神宮ト唱フ 其故ハ滿治ノ頃イツクヨリカ鍬祭リト唱ヘ鍬二挺ヲ打違ヒニ結ヒ白幣ヲサシ車ニ載セテ引來シヲ 土地ノ童子等ヨリツトヒ囃子アルキ當宿ニ至リシカ 其後誰トテ持行ヘキモノナク 今ノ本陣役宮內カ庭ニヲキシヲコヽニ勸請シ 彼鍬ヲ神體トセシ故ニ 御鍬ノ名アリトイヒ傳フ 則本陣役宮內ノ持ナリ
天神社 前社ノ境內ニハアレト末社ニハアラス 此村ニ住メル山崎武平次碩茂トイヘルモノ天明八年朱文公ヲ相殿トシ二賢堂ト號ス 義學ノサマニナソラヘ農民ノ子弟ヲ敎ヘハケマセリ 然リシヨリ釋尊ノ意ニテ每年冬至ニ祭義ナト行ヘリ 彼武平次ハ鄕士ニシテ 世々免除ノ田地モアリト云 持同シ |
神社・お寺情報 |
上尾市指定史跡 上尾郷二賢堂跡
(あげおごうじけんどうあと)
氷川鍬(ヒカワクワ)神社(宮本町一丁目14)
二賢堂は、上尾宿に住んでいた山崎武平治碩茂(ヤマサキブヘイジセキモ)が、地元の有志とともに江戸の学僧雲室上人(ウンシツショウニン)を招き、天明(テンメイ)8(1788)年に建てた郷学(ゴウガク)「聚正義塾(シュウセイギジュク)」の学舎の名称である。
雲室は、当時親交のあった江戸の朱子学者、林大学頭信敬(ハヤシダイガクノカミノブタカ)らと相談し、中国・南宋の朱文公(シュブンコウ・朱子)と、学問の神様と言われる菅原道真(スガワラノミチザネ)の二人の賢人を祀る意味で「二賢堂」と名付けた。
雲室が上尾宿で開塾したのは、学友の石井永貞(エイテイ)と、その門人の上尾宿の山崎武平治碩茂による強い勧めがあったためである。
聚正義塾の学舎は碩茂を主として、上尾宿や近隣の村の人々の資金と労力によって建てられた。
これは私塾ではなく郷学の性格を持っていた。
雲室は4年ほどで上尾を去るが、塾は碩茂が引き継ぎ、死後も続いたと言われる。
現在、氷川鍬神社には、林大学頭によって書かれた「二賢堂」の扁額と、二賢堂の由緒が刻まれた「上尾郷二賢堂碑記」、雲室上人について刻まれた「雲室上人生祠碑頌(セイシヒショウ)」が残されている。 |
例祭日 |
7月15日 例大祭 |
神紋・寺紋 |
左三つ巴
|
更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2024/05/04 17:54:24
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