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広大な敷地に多くの摂社を持つ。春日部の総鎮守。
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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 | 埼玉県春日部市粕壁5597 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス | 東武野田線八木崎 徒歩3分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 048-752-3430 |
FAX番号 | 048-752-1210 |
公式サイトURL | http://www.kasukabe-hachiman.jp |
御祭神 | 誉田別尊[応神天皇](ほんだわけのみこと[おうじんてんのう]) 息長足姫尊[神功皇后](おきながたらしひめのみこと[じんぐうこうごう]) 武内宿祢命(たけのうちのすくねのみこと) 豐受姫命(とようけひめのみこと) |
創建・建立 | 元弘年間(1331年〜1334年) |
旧社格 | |
由来 | 春日部八幡神社(かすかべはちまんじんじゃ) 創建は、鎌倉時代元弘年間(1331〜1334)、春日部治郎少輔時賢(ときかた)が、鎌倉の鶴岡八幡宮より御霊を勧請したもので、参道中央部には、鶴岡の御神木の一枝が飛び来りて一夜のうちに繁茂したと伝えられる大銀杏が空高くそびえています。
境内掲示板 春日部八幡神社 所在地 春日部市粕壁五五九七 新編武蔵風土記稿にも粕壁宿の鎮守として掲載されている春日部八幡神社は、元弘年中(一三三一~一三三四)この地域の武将であった春日部氏により、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものといわれている。この神社は、春日部氏の領地であった新方領の総鎮守であり、その鳥居には「新方荘惣社」の額が掲げられている。天保十一年(一八四〇)の氏子連名帳には、現在の久喜市、杉戸町、白岡町、宮代町を含む五十二ヵ村の氏子三千六十五名を記録している。 本殿後方の高地にある旧本殿は、萱葺き、柱間一・六メートルの流れ造りで、室町期の流れをくむ桃山時代ごろのものと推定され、市内では最も古い建造物として春日部市指定文化財となっている。 参道入口の左側には、嘉永六年(一八五三)に粕壁宿の名主関根孝熈らが建立した在原業平の故事とこの八幡神社の由緒を伝える石碑がある。 また、参道中央の大イチョウには、元弘(一三三一~一三三四)年間に飛来したイチョウの枝が一夜のうちに成長し、参詣人を驚かせたという伝説がある。 この神社の境内につづく稲荷神社横には、通称「浅間山」と呼ばれる高さ八・二メートル、周囲二百メートルにも及ぶ、この辺りでは最も大きな富士塚がある。この富士塚は、江戸時代に隆盛を極めた富士講による富士信仰の対象として築かれたもので、弘化二年(一八四五)に行われた修復工事には、粕壁宿はもとより、幸手領、岩槻領からも大勢の信者が集まったと記録されている。毎年七月一日の初山には、市内各地より赤子を抱いた母親が、子育ての無事を祈ってこの富士塚を訪れている。 昭和六十一年三月 春日部市 |
神社・お寺情報 | 【鎮守の杜の神様たち(境内社)】
①稲荷さま(倉稲魂神) ②鹿島さま(武甕槌命) ③香取さま(経津主神) ④愛宕さま(火産霊神) ⑤天神さま(菅原道真) ⑥弁天さま(市杵島姫命) ⑦氷川さま(須佐之男命、稲田姫他) ⑧御獄さま(櫛真知命) ⑨浅間さま(木花佐久夜姫命) 燈籠 文化五秊戊辰五月(1808) 燈籠 文化八年辛未八月三日(1811) 燈籠 文化十一年甲戌八月十五日(1814) 燈籠 文政五年壬午(1822) 燈籠 嘉永己酉八月(1849) 境内碑 奥の印復興記念碑 御本殿裏のこの地には、これまで春日部市最古の建造物として市の文化財指定を受けた旧本殿がありました。この建物は、室町時代の建築様式で桃山時代の作といわれ、朱塗りの柱壱間社で向拝を付けた茅葺屋根の流れ造りのものでした。しかし、去る平成七年十一月五日夕刻、不審火により焼失しました。 その後、氏子崇敬者の方々より旧本殿復興への強いご要望があり、神社役員一同そのお心をうけ、奉賛活動を開始しました。この結果、多くの御浄財を戴き、平成八年四月御社殿等の復興事業が始まり、同年十月十五日に竣工式を斎行致しました。 新しく建立された御社殿は、旧来の形を模したもので、安全のため銅板葺となっています。今後は、これまで親しまれてきた「奥の院」という名称を以て大切に保存継承して参りたいと存じます。 後世のため之を記します。 平成八年十月吉日 境内掲示板(焼失前の説明) 市指定文化財 有形文化財「建造物」 春日部八幡神社旧本殿 昭和四十七年五月十六日指定 春日部八幡神社は、元弘年中(一三三一~一三三四年) に当地の領主であった春日部氏によって鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請、創建されたものといわれています。 この旧本殿は、手斧造りという特徴的な構造に当時の神社建築の様式をそのままに残してい て、市内では最も古い建造物として春日部氏の動静を伝える貴重な文化財です。 また、この神社の境内を含む一帯は、春日部氏の館跡ともいわれ、奈良・平安時代から中世 までの複合遺跡の渋川戸遺跡として知られています。 昭和六十年三月 春日部市教育委員会 春日部市文化財調査委員会 境内掲示板 「参道入口道標石」について 当神社前の道路は、往古下総国より武蔵国に向かう鎌倉街道の道筋であり数多くの歴史がきざまれてきました。 この道標石は、これまでの金山の踏み切りの先、三叉路に当神社の「参道入口道標石」として建立されていましたが、自動車によって倒壊することが多く安全のために去る平成九年二月にこの参道に移設しました。 「都鳥の碑」について 「名にしおはばいざ言問はん都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」 この歌は、在原業平(平安時代の歌人)が奥州に旅をしたとき、武蔵国と下総国との境にある隅田川の渡しで詠んだものである。往古当神社の辺りが両国の境になっており、奥州への通路にもなっていました。この石碑は、その故事を後世に伝えんと、江戸末期嘉永六年(一八五三年)粕壁宿の名主関根孝熈が千種正三位源有功に依頼し由緒をあらわしたものです。 境内碑 隅田川はむさしと下つふさの國の界なり陸奥に往かふ道にあたる所を 春日部のうまやといふ在原の中将のいさことゝはん都鳥とよめりし跡なから ふちとかはりて今は小川となりむかしのわたりは岡となりしか元弘のとし さかみの国鶴岡の銀杏の一えた飛来りてひとよのほとにおひたちけり 其神木のもとに鎮りいます神のみいつのいやましに幸ひ給へるみや しろのあたりそいさ舟にのれと云けん昔の名残な○け〇○し 正三位有功 とはれつるあとたにとめよ都鳥むかしは遠きわたりなりとも 神垣にたてるひときをためしにて千々にさかえん春日部の里 新編武蔵風土記稿 埼玉郡粕壁宿 八幡社 宿ノ鎭守ナリ元祿年中別當玉藏院住僧ノ書シ緣起ニ昔元弘年中新田左中將義貞ノ家臣春日部治部少輔時賢ナルモノ當所ヲ領シ多年相州鶴岡八幡ヲ敬信シ屢靈護ヲ蒙シリユヘ遙拜ノ爲則鶴岡ヲ寫シテコヽニ勸請スト云因テ昔ハ新方ノ總鎭守ニテ社宇莊嚴ヲ盡セシニ其後遙ノ星霜ヲ歷テ屢盛衰アリシカ今ハ又社殿備リ頗ル舊觀ニ復ス 末社辨天社 |
例祭日 | |
神紋・寺紋 | ![]() |
更新情報 | 【
最終
更新者】zx14r 【 最終 更新日時】2024/09/07 10:52:52 |