2.8
氷川神社
(ひかわじんじゃ)
埼玉県さいたま市西区西遊馬235-1
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みんなの参拝記録
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(りんごぐみさん)
おすすめ度:
★★
1
55
参拝日:2020年11月15日 16:15
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(shikigami_hさん)
おすすめ度:
★★★
1
86
参拝日:2020年8月8日 16:24
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(ロビンさん)
おすすめ度:
1
106
参拝日:2020年8月8日 16:00
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(こーちんさん)
おすすめ度:
0
26
参拝日:2024年9月28日 09:07
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(やまちーさん)
おすすめ度:
0
16
参拝日:2024年2月12日 12:10
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(ムンクさん)
おすすめ度:
★★★
0
38
参拝日:2021年12月12日 09:57
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(thonglor17さん)
おすすめ度:
★★★
0
45
参拝日:2020年10月18日 09:40
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(生臭坊主さん)
おすすめ度:
0
1
参拝日:2018年6月17日 00:00
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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県さいたま市西区西遊馬235-1 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
JR川越線指扇 徒歩20分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
048-624-9742 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
・素盞嗚尊 |
創建・建立 |
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旧社格 |
旧村社 |
由来 |
境内掲示板
氷川神社 御由緒
さいたま市西区西遊馬二三五~一
▢御縁起(歴史)
当地は荒川左岸の低湿地にあり、古くは大風雨の際には度々堤が決壊し田畑が冠水した。
戦国期の成立とされる「市場之祭文写」に「足立郡遊馬郷指扇村市祭成之」とあり、指扇村や当地を含む付近一帯は中世末には遊馬郷と呼ばれていたことがわかり、既に当地も開発されていたと思われる。
当社は、地内の南部に当たる字宿に鎮座し、すぐ近くには天文十二年(一五四三)の草創と伝える曹洞宗遊馬山高城寺がある。創建については明らかでないが、口碑によると、当社は初め堤外にあったが、荒川の大囲堤を築く際に今の地に移ったという。『風土記稿』遊馬村の項には 「氷川社 村の鎮守なり、華蔵院の持」とある。これに見える別当の華蔵院は、当社の南南西二五〇メートルほどの所にあった天台宗の寺院で、その開基は明らかでない。明治四年に廃寺となった。
『明細帳』によると、当社は明治六年に村社となり、同四十年から翌四十一年にかけて、地内の字上サの八幡社をはじめとする無格社七社を合祀し、更に大正九年に字浄蓮坊の無格社稲荷社を合祀したとあるが、そのうちの数社は実際の合祀を免れている。本殿に奉安される神像(全高四七センチメートル)は正面に八幡宮の神紋である巴紋が描かれていることから、上サの八幡社の八幡大明神像と推測され、その台座底部には 「安永元天辰(一七七二)ノ十二月吉日」の年紀が見える。
境内碑
合祀碑
敬神崇祖は我帝國の國風なり尊王愛國は我億兆の精華なり抑埼玉
縣北足立郡馬宮村大字西遊馬の里はしめ風俗敢厚礼節自から備はり
常に敬神の志厚かりき祭祀の典尊祖の道の舉らせるを憂つる折しも
偶其筋の訓諭もありしかは明治四十一年六月に至りて大字内なる字
東間前厳嶋神社字本村稲荷神社字上サ八幡神社稲荷神社字會谷厳
嶋神社字高木稲荷神社字中野厳嶋神社の七社を合祀し社殿の設備祀
典の齋整をなせり真に斯風猷を萬世に維持するの美舉と謂つへし今
茲に碑石に録して永く紀念せむとし巳福臣に文を乞るゝまゝに謹みて
かくは記しぬ
神道管長従二位長谷信成篆額
同顧問 正八位東角井福臣撰并書 |
神社・お寺情報 |
境内掲示板
▢大宮・川越道歴史散歩コース▢
西遊馬・氷川神社
かつての遊馬村の鎮守で、“宿の氷川様”と呼び親しまれています。当地は大宮と川越のほぼ中間に位置し、「宿」の名が示すように、遊馬では神社前の道の両側に集落が営まれていました。鳥居前の道は、江戸時代から大宮と川越を結ぶ重要な道で、南は馬宮保育園前を左折し県道に出て右折、水波田観音を経て大宮や与野へと結ばれ、北は馬宮東小学校前を通り、荒川堤防上を北進、丸堀の北側を通り千手堂の渡しで荒川を越えて川越へ至りました。丸堀の北側から先の道はゴルフ場になっておりたどることが出来なくなっています。
7月中旬に、天王様の祭礼が催され、神社入口に大きな幟を立て、子供神輿や山車が出て大変賑わい、地区内を巡行します。
さいたま市教育委員会生涯学習部文化財保護課
境内掲示板
遊馬の力石
徳川家康の命により、江戶時代初期に荒川の瀬替えに着手したのが関東郡代伊那半十郎忠次です。忠次は土屋に陣屋(現在の永田邸)を設け、旧荒川を入間川の河道につなげる大土木事業を進めました。
荒川が遊馬地区を流れるようになると、新田開発が盛んに行われるようになり、この地区は近郷有数の穀倉地帯となりました。そして、収穫の秋を迎えると、神社の祭礼では「若者組」が中心になって力比べを行いました。若者組は当時の村の行事、祭礼、共同作業の担い手であり、力比べは村人がお米の収穫を祝う娯楽の一つとして催されました。力自慢の若者の名は村中の評判となり、英雄気分に浸ることができたことでしょう。
成人男子にとって、米俵一俵一六貫(六〇キロ)の扱いは最低条件であり、力比べには三〇貫(百十三キロ)、五〇貫(一八八キロ)の「力石」が多く使われたようです。力石は収穫と結びついていたため、たいへん縁起の良いものとされています。力石による力比べは明治時代まで続きましたが、今はその力石だけが西遊馬氷川神社の境内に残されており、往時の盛況を語り掛けているようです。参詣の折には、この石に触れて、当時を偲んでいただければと思います。
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例祭日 |
・元旦祭(一月一日) ・春祭り(三月七日) ・御例祭(四月一日) ・天王様(七月十四日に近い日曜日) ・新嘗祭(十一月二十三日) |
神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】管理者
【
最終
更新日時】2024/10/24 09:43:45
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