別小江神社 参拝記録 (ペルシャさん)

別小江神社の参拝記録(ペルシャさん)
別小江神社の参拝記録(ペルシャさん)
別小江神社は「延喜式」の山田郡別小江神社に否定されている神社です。元々は六所明神と呼ばれていましたが、明治になって「延喜式」の注釈本としてまとめられた「特選神名牒」で、「浅野勝行がこの神社が別小江神社だと書いた書状があるのでこの神社を別小江神社とする」というような内容が書かれており、以来、六所明神という名前を改めて別小江神社を名乗っている。浅野勝行というのは、戦国時代にこの安井を治めていた浅野勝行(秀吉の妻ねねの養父)のことか、それともその親族のことであろうが、なぜ戦国時代になって、600年以上行方知れずとなっていた別小江神社が六所明神だと断定したのかは分からない。 また、それとは別に何故か由緒板には667年に延奈八幡が創建され、後に延喜八幡と呼ばれるようになったという説明が唐突にある。別小江神社には六所明神の他に、境内小社にあった八幡社を本殿に祀っているというから、その説明だろうか。 別小江神社は六所明神として祭られていた時の六柱の神(伊弉諾、伊弉冉、天照大御神、素戔嗚尊、月読尊、蛭児命)を祭神としつつも、元々境内の小社に祭られていた神功皇后を本殿に待つっており、この小社が別小江神社というような扱いになっている。これは、別小江神社のものと思われる伝説があるからだ。 神功皇后は三韓征伐の際、鎮懐石を腹に巻いて出産を遅らせたが、その鎮懐石を探してきたのが尾張国造稲植(イナダネ)で、彼は出産後も神功皇后とその子、誉田別(ホムタワケ。後の応神天皇)のお世話をしたので帰国の際に神袍を頂いたという。その神袍を千本杉という場所に祀ったというものだ。 尾張国造稲植は、熱田神宮にも祀られている建稲種(タケイネダネ)のことであろう。「熱田太神宮縁起」では建稲種は、ヤマトタケルの東征の際に不自然な死を遂げていることになっているが、もし誤伝であれば、老齢ではあるが尾張国造として神功皇后の三韓征伐に参加していてもおかしくない。恐らく、この神袍を祀った神社こそ別小江神社の起源であろう。 千本杉という地域は今の名古屋にはないが、杉の地名が多くついた場所はある。別小江神社から2キロほど南下した清水という場所だ。この当たりは、明治時代までは杉村と呼ばれていた。また、この地域の北側は大曽根面と呼ばれる断層があり、今は別小江神社の北を流れる庄内川が、昔はここまで南下して台地を削っていたと言われている。つまり、建稲種の時代は、清水から小牧の南あたりまでは庄内川と矢田川が流れを変えながら拡がっていたと推測される。さすがにその真ん中に神社は作れない。 ここからは妄想であるが、4世紀後半頃に建稲種は神功皇后から賜った神袍を、自分たちの治めていた尾張の山田郡にあった千本杉という場所(いまの清水あたり)に祀った。祭神は神功皇后、もしくは誉田別(応神天皇)のいずれかか両方であっただろう。すぐ北が入り海だったので、いつしか別入江(別小江)神社と呼ばれるようになった。7世紀になり、別小江神社から勧請して千本杉に神功皇后と応神天皇を祀る延奈八幡が創建される。この時、延奈八幡に別小江神社の伝承も伝わる。延奈八幡は延喜八幡に変わり、これが中世以降に創建された六所明神の境内小社として遷座される。延喜八幡に伝わる伝承が六所明神にも伝わり、浅野勝行はこの伝承をもって六所明神を別小江神社としたのではないだろうか。

おすすめ度: ★★★★
参拝日:2020年4月26日 19:53

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