鏡神社(南都鏡神社) 参拝記録 (天地悠久さん)
当社の起こりは、左遷されていた大宰府で反乱を起こした藤原広嗣が、肥前国松浦郡で処刑。怨霊神となったためにその地で祀られていた鏡神社から、「頭塔」近くの福智院に勧請されたたというもの。天然痘の流行により藤原四子が相次ぎ病死、代わりに台頭したのが橘諸兄。吉備真備や僧玄昉を側近に付け、広嗣を大宰府へ左遷。広嗣は疫病流行や政治の乱れを、諸兄らが原因であると聖武天皇に上表、同時に挙兵。天平十二年(740年)のこと。結局反乱軍は敗北、鏡神社の地で処刑。その社に二ノ宮として祀られています。乱後、広嗣は怨霊神とされ都は恐怖に。当初福智院に勧請されたのは、玄昉が筑紫で急死、遺体は飛散し興福寺へ、首は頭塔、腕は肝塚町、眉と目は大豆山町へ飛来。広嗣の祟りであると考えられたようです。現社地遷座は、平安後期に新薬師寺再興の際に鎮守社となったことによるもの。広嗣の旧屋敷が側にあったため、その跡地に創建されています。
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