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基本情報
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住所 |
大阪府豊中市庄本町1−2−4 |
五畿八道 令制国 |
畿内 摂津 |
アクセス |
阪急バス上津島線庄本停西へ100m |
御朱印授与時間 |
|
電話番号 |
06−6332−3110 |
FAX番号 |
06−6332−3207 |
公式サイトURL |
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御祭神 |
素盞嗚之尊 神功皇后 |
創建・建立 |
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旧社格 |
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由来 |
当神社は古来東西椋橋荘(12世紀半に、摂関家領椋橋荘が椋橋東荘と椋橋西荘に分立してできた荘園で、猪名川と神崎川の合流点、現在の大阪府豊中市南西部と兵庫県尼崎市戸ノ内町付近に位置した)の中央である荘本(庄本)に鎮座し、同荘の総産土神で、椋橋総社又は椋橋荘神前松原の社とも称する。遠き神代の御時、素盞嗚之尊が高天原より鯉に乗り、神前(神崎)の水門を経て当荘に御降臨なされたことにより、崇神7年(紀元前91年)11月、椋橋部連(むらじ)の祖、伊香我色乎命(いかがしこをのみこと)が斎い定め祀ったと伝えられている。椋橋荘(くらはしのしょう)は正史にも明らかな地で、椋橋部連(むらじ)とその部曲民の住む土地であった。この荘の区域は猪名川を境にして東西に別れ、東椋橋荘が石蓮寺、寺内、浜、長嶋、三津屋、野田、牛立、菰江、上津島、嶋田、今在家、洲到止、荘本(庄本)、島江、以上14ヶ村と、西椋橋荘が高田、神崎、戸の内、推堂、穴太、富田、額田、高畑、善法寺、法界寺、以上10ヶ村と、東西合せて24ヶ村からなっていた。
また、当社は昔、神功皇后が新羅へご出発の時、神々をこの神庭に集め幸をお祈りになったという霊験著しい古社である。 かくして朝廷の御崇敬も一方ならず、天文8年(1539年)4月、後奈良天皇の勅願所と定められ、東椋橋荘を社領として加えられた。
又、武門の崇敬もとり分けて深く、明徳2年(1391年)7月、藤原秀安は金鼓を寄進し、天正年間、池田筑後守は嫡子多聞丸誕生のため、武運長久を祈り獅子頭を寄進した。獅子頭は社宝となっている。尚、その他の社宝には元和6年(1620年)9月天下一長久作の神鏡がある。往時には社家が多く、社家町をなし、今も付近にその遺跡を存する。世の推移に従い、氏地の中には、別の祠を建て産土神として祀るところも出て来て、加えて戦国時代には付近一帯に兵乱が続き、社前も次第に衰退し、天正6年(1578年)、織田信長の荒木村重討伐の折の兵火により、社殿、宝物、古文書等、ほとんどを焼失した。
同9年、仮殿にて神霊を鎮座し、慶長4年(1599年)6月14日、社殿を再建したが、旧時の如くに復することが出来ず、天正の頃まで氏地であった東長嶋も別に祠を建て、氏地は庄本、戸の内、高田、神崎の4ヶ村となり、その後、又、高田、神崎、戸の内も一村限りの祠を建て氏地は今の如くになった。大正5年(1916年)8月、常夜灯の倒壊によって火災を起こし、本殿、拝殿が焼失した。現在の社殿は、その後大正6年(1917年)4月に再建されたものである。 |
神社・お寺情報 |
「鯉の宮」とも呼ばれる、旧猪名川沿いに鎮座する古社で、鯉にゆかりのある神社として鯉伝説が古くから伝わっている。また、承久の乱の発端の地としても有名で、後鳥羽上皇御信仰の寵姫亀菊の信仰厚かった天満宮をこの地に勧請した「出世亀菊天満宮」がある。
また、境内には「鯉池」、「鯉塚」の他、クスノキとクロガネモチの合体木があり、夫婦円満の木として親しまれる「縁結びの木」もある。 |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
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最終
更新者】重複表現を修正しました。
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最終
更新日時】2024/08/25 21:34:06
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