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基本情報
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「愛染堂・愛染明王」と絹産業遺産群
熊谷市指定有形民俗文化財「愛染明王」
仏像彫刻の美を有する本尊の 「愛染明王」 は、 熊谷市下川上地区にて時代を越えて保存されてきた。江戸時代以降、「藍染」と 「愛染」の関わりから、関東一円の多くの染物業者などが参拝し、額の奉納や修理工事が実施され、庶民信仰の文化遺産として今に伝えられてきた。
宝乗院愛染堂の本尊は、大同元年(806)、日本一木三体の一体(その他、陸奥国、筑紫国)として造立されたとの言い伝えが語り継がれている。その後、江戸時代に入り秀逸なる仏師の手によって、「愛染明王」が制作された。像高は、髪際までの高さで約三尺六寸(1.09 メートル) を計り、全体で1.45メートルの大きさを誇る。台座と合わせると、半丈六(2.42メートル)を越える大きさとなる。
仏像の形状は、三目六臂(さんもくろっぴ)の仏相であり、肌色の赤色は実在の日光の輝きを示している。三目の怒相は三界(宇宙)の邪悪を払う形相を示している。六臂の中において左の上手の拳は、願望を成就することを、右の上手に蓮華を持つのは汚れを払い円満をもたらすことを意味している。右の中手には五鈷杵(ごこしょ)と、左の中手には金剛鈴を持ち、これらは衆生からの救済を願う形仏相である。左の下手には金剛弓、右の下手には金剛箭(こんごうや) を持つ。これは煩悩などを払い、悲観厭世の妄心を射抜くことを示している。毛髪の逆立相は魔縁降伏の相を示し、頭頂の獅子冠は、七曜の吉凶逆転を予期させるものである。本像は、近世仏像彫刻の優れた作例の一つであるといった美術的価値をもつとともに、染色業者による愛染信仰の本尊としての歴史的、民俗的資料価値を有している。
世界文化遺産「富岡製糸場」 と尾高惇忠
平成26年6月25日、第38回ユネスコ世界遺産委員会にて「富岡製糸場と絹産業遺産群」を世界文化遺産に登録することが決定された。明治5年に創業した官営富岡製糸場は、初代工場長に尾高惇忠(じゅんちゅう・あつただ)を迎え、飛躍的な発展の下地を作り上げた。民営化後、 昭和14年に現在の片倉工業株式会社に合併。その後、昭和62年に操業を停止し、平成17年に同社から富岡市に寄贈された。
富岡製糸場には深谷出身の三人の人物が深く関わっている。渋沢栄一は明治政府の官営を前提とした製糸場設置を推進し、尾高惇忠は富岡にフランス式の機械製糸場を竣工して初代場長を務めた。韮塚直次郎は富岡製糸場の巨大建築建設を支える煉瓦職人を束ねた。
また、尾高悼忠の長女ゆうは富岡製糸場の工女第一号として就労し、最新鋭の機械式糸繰りをフランス人から習得する伝習工女の先駆けとなったことで知られている。
奉納額と尾高家・渋沢家 一愛染堂と世界遺産との関わり一
平成27年3月、後に保存修理工事を控えた愛染堂(熊谷市下川上)に掲げられていた絵馬及び額を取り外し、隣接する下川上自治会館に移動した。その際、尾高惇忠が記した奉納額を確認することができた。
額には「共進 成業 唯賴 冥護」と示されており、藍染業を中心とした業界団体から愛染堂に奉納された額であることが判明した。そして、世界遺産「富岡製糸場」初代工場長尾高惇忠の号(筆名)である「尾高藍香」の名が確認できた。(サイズ 横:133cm 縦:79cm 厚み:5cm)
また、額の願主には、養蚕や藍玉の一大生産地だった現在の深谷市域の地名が見えることから、商売繁盛や業界繁栄の祈願を行っていたことが分かる。その中には、尾高の義弟である渋沢栄一の義弟の市郎や、栄一の伯父で養蚕の改良に力を尽くした渋沢宗助の名前を見ることができ、尾高・渋沢家の人々が現在の市域を越えて交流があったことを明らかにする遺産といえる。
熊谷市指定有形民俗文化財「藍染絵馬」
江戸時代中期以降、愛染堂は染物業者からの信仰や「愛染」から見て取れる恋愛成就の願いが込められてきた。愛染堂内には奉納額や絵馬が複数掲げられ、その信仰の様子が垣間見える。また、欄間に組み込まれた彫刻も秀逸で、肉彫りなどの技術が見られる。これらは愛染堂に伝わる多くの想いや技術を今に伝えている。
染織関係の絵馬には、天保年間の紺屋の絵馬などが4枚あり、熊谷市の有形民俗文化財に指定されている。その中には、藍場にて7人の男女がそれぞれ違った作業に励んでいる絵馬がある(上図)。糸染めの手順に従い、最初の染めから、絞り、染め、絞りといった各人の仕事の様子を見ることができる。
堂内の他の絵馬には、浸染めする人、庭先で商談する人、意匠に工夫をこらす人、屋外で引き染めをする人といった多様な職人の構図が描かれているものもあり、その多様さから、愛染明王に対する信仰の一面をうかがうことができる。その他、複数の奉納額があり、享保12年(1728)に記された地元氏子奉納による諸願成就の額や、天明3年(1783)の羽生領下川崎村広瀬氏奉納の面などがある。
平成28年3月1日 熊谷市教育委員会
埼玉郡下川上村
寶乘院 天臺宗上中條村常光院ノ門徒醫王山南榮寺ト號ス本尊阿彌陀ヲ安ス 金毘羅社
境内碑
愛染明王
原夫神靈不足之聖徳昭二而猶月卯水凡有禱祈必蒙
感應殊錫類於染業門是所以崇重増到深也于斯敷石
改修之工始告功葢不偶然矣先是有出藍之篤信諸軰
創設藍製請者實安政三年丙辰之夏也其敷石既經数
百之年所或欫而亡全形織潰而存片影其状呈太害境
趣之観諸軰濳憂之將俟時機而後起工之念雖毎不能
禁因循緘黙耳既而及明治五年壬申之秋時運梢熟廼
咨之於講員輙表誓意者如一口衆議己定其要貲乃歳
課講員其元息相蓄殖爾后斗轉星移覃至明治廿六年
癸巳之夏欲彌起其工而支収不相償以故從昨夏迄今
奉梳風沐兩廣奨募優志之義捐篤信之喜捨其浄財恂
致過思之多以營以經工鑿于山斧鳴于谷於是初得奏
功矣發起以還閲年三十又七而全成云嗚呼其赤誠可
謂親且切也所顯碑表之三氏偶来請余志其由緒告之
悠久云爾
明治廿七甲午年五月吉日
耕雲田上靈猛撰誌

【 最終 更新日時】2023/04/02 10:11:56