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基本情報
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住所 |
埼玉県本庄市小和瀬1 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
JR高崎線本庄 徒歩49分 |
御朱印授与時間 |
|
電話番号 |
0495-21-2066 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
倉稲魂命 |
創建・建立 |
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旧社格 |
旧村社 |
由来 |
境内掲示板
第62回伊勢神宮式年遷宮記念
稲荷神社御由緒
本庄市小和瀬一
▢縁起
『風土記稿』小和瀬村の項に「稲荷社 村の鎮守にて宝蔵寺の持」と載るように、当社は江戶時代には真言宗の宝蔵寺の管理下にあった。この宝蔵寺は、神仏分離によって明治初年に廃されたものと思われ、今ではその跡地さえ定かではないが、同寺に伝えられていた「小和瀬村鎮守稲荷大明神縁起」(『埼玉叢書』第六巻所収)を要約すると、次のようになる。
天慶年聞(九三八~九四七)、平将門征討のため東国に下向した源経基が、利根川の辺りにたむろしていた将門の弟三栗三郎将頼と小阿波瀬の河原で戦い、ついに将頼を討ち払うことができた。この勝利に際し、経基が京都伏見稲荷を村の西方に勧請したのが当社の始まりであり、弘安年間(一二七八~八八)にこの地に住した小阿波瀬野五郎重弘が当社を守護神となし、更に寛正年間(一四六〇~六六)に上杉管領房顕が五十子城にあった時、当社を東方に遷すと共に社殿を五十子城に向けて再建し、城の鬼門守護の神として祀ったという。
その後も、当社は様々な武将によって崇敬され、永禄五年(一五六二)の小阿波瀬合戦では、当社の森に宿陣した新田方が上杉方に大勝利を収めたことから、新田家より神領を差し置かれた。慶長九年(一六〇四)の備前渠用水の掘割りに際して、一旦は村の西方に遷座したが、寛永二年(一六二五)に現在の社地に移り、今に至っている。 |
神社・お寺情報 |
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例祭日 |
10月19日
・節分祭(二月三日) ・建国祭(二月十一日) ・祈年祭(三月二日) ・祖霊社例祭(三月春分日) ・八坂祭(七月二十五日に近い日曜日) ・例祭(十月十九日) ・新嘗祭(十二月二日) ・手長男祭(十二月十九日) |
神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】ムンク
【
最終
更新日時】2025/07/13 05:09:08
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