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★★★★★ 参拝日:2021年9月19日 20:11
三大東照宮の一つと言われる仙波東照宮です。 出ました、三大なんちゃら。 他がどこなのか調べてみました。 日光、久能山は確定みたいですが、3つ目が他にも候補があるようですね。 三大なんちゃらは、このハッキリしないとこがおもしろいね😄
★★★★★ 参拝日:2024年2月15日 13:00
御朱印は川越八幡宮にて。
★★★★ 参拝日:2020年9月20日 10:02
以前、川越に来た時、遅くなって、見逃したので、今日は、一番最初に。 ここは有名な狛犬がいる😊 境内を掃除しているおばさんと話していたら、本殿内の写真のファイルを見せていただいた。 定期的に掃除に来ているらしい、恐縮。
参拝日:2020年8月27日 13:28
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住所 | 埼玉県川越市小仙波町1-21-1 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス | 西武新宿線本川越 徒歩10分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 049-224-3431 |
FAX番号 | |
公式サイトURL | https://www.kawagoe-hachimangu.net/%E8%A4%87%E8%A3%BD-%E7%A5%9E%E5%89%8D%E7%B5%90%E5%A9%9A%E5%BC%8F-3 |
御祭神 | 徳川家康公 |
創建・建立 | 1617(元和3)年 |
旧社格 | 無格社 |
由来 | 境内掲示板
重要文化財・建造物 仙波 東照宮 徳川家康をまつる東照宮は、家康の没後その遺骸を久能山から日光に移葬した元和三年(一六一七)三月、喜多院に四日間とう留して供養したので、天海僧正が寛永十年(一六三三)一月この地に創建した。その後寛永十五年(一六三八) 正月の川越大火で延焼したが、堀田加賀守正盛を造営奉行とし、同年六月起工、同十七年完成した。当初から独立した社格をもたず、喜多院の一隅に造営されたもので、日光・久能山の東照宮とともに三大東照宮といわれている。社の規模は表門(随身門)・鳥居・拝幣殿・中門(平唐門)・瑞垣・本殿からなっている。本殿の前には歴代城主奉献の石灯籠がある。 なお拝殿には岩佐又兵衛勝以筆の三十六歌仙額と幣殿には岩槻城主阿部対馬守重次が奉納した十二聡の鷹絵額がある。 埼玉県教育委員会 川越市教育委員会 境内碑 仙波東照宮沿革碑 元文部大臣前早稲田大學總長貴族院議員法學博士高田早苗題額 當社は元和三丁巳年八月十六日喜多院中興の祖二十七世天海僧正の勧請なり 抑々徳川家康元和二丙辰年四月十七日○壽 "七十五歳を以て駿府城に薨するや二代徳川秀忠遺命に從ひ初め駿州久能山に神葬せしが同三年三月十五日更めて野州日光 " 山に遷殯するに當り富士山麓の善徳寺に初宿して三嶋小田原中原府中等に繼宿し同二十三日靈柩喜多院大堂に着御す逗留 此に四日其の間天海の論議法問衆僧の法蕐讀誦あり蓋し仙波者是三祖之起立慧心一流之嫡家也於寺院者天下無雙之靈地也 とあれば家康數々放鷹を行ひて川越に次し仙波を過りて天海と會談するを喜びたればならん流石天海も之に感激し公の像 ら彫作して喜多院大堂に分祀崇敬せしが後寛永十癸酉年社地を新に北に相し高さ五間の子丘を築き本社間口六尺奥行八尺 拜殿三間四方中間に石之間を置き蕐表等を造營して奉還す此の工正月十六日起工十一月十三日竣工同十六日神體を内陣に 安置す其の神體は甲冑を着し槍を小脇に掻込みて威風堂々駿馬に打騎れる大将軍身の權現なり是れ即ち天界の發意に因り 常侍奉仕の誠を盡さんが爲我今仙波喜多院に於ては敢て尋常の神體に衆ることなく應に武徳を表はし兵威を現したる大将 軍身の權化に據るこそ東照大權現の真髄にして靈威の發源なれと然るに同十五戊寅年正月二十八日辰刻隣郷川越街に大火 あり天海が多年心血を注ぎたる喜多院の再興は慶長十七年以來の經營なりしが大堂慈慧堂大寝殿本坊庫裡輪藏東南北の大 門總門より日吉山王大權現東照大權現に至るまで盡く延焼一宇を留めず是に於て三代徳川家光直に喜多院及び東照宮の再 建を計り川越城主堀田正盛を造營奉行に命じ先づ東照宮の廟社より始む此に於て本社幣殿拜殿唐門玉垣随身門五十段の石 階成り面目一新偉觀前にも勝りたり此の工實に六月一日起工同十七年五月二十日竣工而して拜殿に揚ぐる三十六歌仙額は 家光特に岩佐又兵衛勝以に命じて寛永十七庚辰年六月十七年畫かしめ幣殿に揚くる加納探幽筆上繪鷹十二聰額は寛永十四 丁丑年九月十七日阿部對馬守重次の寄進にして鳥居石燈籠水屋等は各川越城主の寄進なり爾来幕府直營の社殿となりたれ ども祭資未だ備らざりしを以て寛文元辛丑年正月喜多院二十九世周海僧正は川越城主松平信綱を介して以聞祭田を請ふ同 年三月四代家綱隣郷大仙波村二百石を賜ふ爾後屢々修理を加へられしが就中弘化四丁未年最も大工事たりしといふ而して 明治の初神佛區別の令に依り喜多院の神務執行を解きて神官之に代り社領を奉還して逓減録を賜はる斯くて明治三十九年 四月十九日歌仙額國寶に指定せらるゝや忽ち世上注目の的となり參拜者の數を増せしが社殿は年と共に朽廢し中にも外廊 の玉垣最も甚し乃ち昭和六年八月起工奥州白河産石材を以て玉垣延長七十八間有餘の改築を初め石階の改修參道の舗装等 に及び同八年八月竣功す次で昭和十年九月境外西方より南東に亙る一帶の民有地を買収し境内を擴張す即ち舊境内三千三 百十九坪に加ふるに新に七百九十六坪八合一勺を以てしたれば境内總て四千百十五坪八合一勺なり矣 昭和十一丙子年一月 澤新平撰併書 |
神社・お寺情報 | |
例祭日 | 8月17日 例大祭 |
神紋・寺紋 | 徳川葵 |
更新情報 | 【
最終
更新者】龍太郎 【 最終 更新日時】2023/08/11 19:57:17 |