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基本情報
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住所 |
愛知県岡崎市市場町字元神山16 |
五畿八道 令制国 |
|
アクセス |
名鉄名古屋本線藤川 徒歩8分 |
御朱印授与時間 |
|
電話番号 |
0564482457 |
FAX番号 |
|
公式サイトURL |
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御本尊 |
片目不動尊 |
宗派 |
真言宗 醍醐派 |
創建・建立 |
不詳 |
由来 |
当院は真言宗に属し密教的な「祈祷」や「占い」を中心にした修験道の寺院である。つまり世間でいう開運、厄難消除の霊験あらたかな願掛け寺である。院の名称は「明星院」、山号を「弘法山」と言い、本尊は「不動明王立像」、俗に「片目の不動」と呼ばれ、真言宗醍醐派の寺院である。寺伝によると、院の由来は山中郷の舞木に建てられた堂が当寺の始まりと言われ、熊野那智山の末寺であった。市指定文化財の「那智山参詣曼荼羅」が当時を物語る。しかし、慶安元年(1648年)に藤川宿の加宿として移住した市場村の移転にともなって、当院も延宝三年(1675年)に役の行者秀悦が現在地に移転、建立し、この周辺の山伏修験者の道場として三河一円の帳元であったと伝わる。その後、天和年間(1681-83年)、巧嶺寿徳の代に京都醍醐三宝院末に改宗して以後、真言宗醍醐派の三河の中心的な修験道修行道場として修験行者を迎え、苦行、祈祷を中心とした「行」に励む場所となっていた。当時の古文書や棟札当の古記録によると、地域の信仰にも大きな役割を果たしていたようで、例えば市場村牛頭天王棟札に「市場村牛頭天王別当」、藤川宿赤山大明神には「先達」、龍泉寺村明神には「法王」などがあり、その祭祀に大きく関わっていたことが知られる。しかし、明治二年(1869年)五月、神仏分離令によって神社への奉仕は禁じられて、真言宗古儀派の教義にのっとり、加持祈祷やまじないを中心とした宗教的な活動をし、今尚旧額田郡内では広く、根強い信仰がある。また、本堂内には古い仏像、仏画、仏具などが多く残されていて、「蔵王権現懸仏」、「那智山参詣曼荼羅」は岡崎市指定文化財となっている。境内には行者堂、筆子塚等も残る。【明星院境内「案内板」より】 |
神社・お寺情報 |
三河新四国霊場 三十三番・三十四番札所 ➡︎片目不動尊:徳川家康が若い頃、今川方の武将”鵜殿長持”と戦ったが岡崎勢は総崩れになって退却を始めた。この時、岡崎勢の後に白衣の入道が現れ、そのまわりから何百何十の矢が一度に放たれた。鵜殿軍は総退却を始め岡崎勢はこれに力を得て追撃を始めた。鵜殿軍にも一人の勇者がいて、白衣の入道に狙いをこめて矢を放ったが入道はびくともしない。戦いは岡崎勢の大勝に終わり、家康は大いに喜んだ。後に明星院へお礼参りに来てみると、不思議な事に不動明王の片目がつぶれていた。それ以来”片目の不動尊”と言われるようになった。その後、代々の将軍をはじめ。時の大名の崇敬も高く、東海道を上下向の際には明星院に立ち寄り武軍長久や道中安全の祈願をした。また、心願成就や天災除けを祈願する人が後をたたなかったと言われている。【明星院説明書き】 |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】あきちゃん
【
最終
更新日時】2021/03/08 10:19:54
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