みんなの御朱印
自分の御朱印
まだ御朱印が登録されていません
みんなの参拝記録
0
129
自分の参拝記録
まだ参拝記録が登録されていません
みんなの動画
自分の動画
まだ動画が登録されていません
基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県川越市木野目1162 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
JR川越線南古谷 徒歩7分 |
御朱印授与時間 |
|
電話番号 |
049-235-1682 |
FAX番号 |
|
公式サイトURL |
|
御祭神 |
宇迦之御魂神 |
創建・建立 |
|
旧社格 |
|
由来 |
稲荷神社<川越市木野目一一六二(木野目字新田)>
当地は九十川流域に位置し、『風土記稿』によると村の規模は東西一一町、南北五町、戸数は七五戸で水田は少なく湿田が多く、洪水になるとその被害は大きかったという。
当社は別名仁寿稲荷と称し、五穀守護の神として勧請された。祭神は宇迦乃御魂命で、内陣には神使である白狐が二体祀られている。雄狐の台座裏面には、江戸の杉山半六・杉山三左衛門が宝永六年二月五日奉納したものを寛延二年五月一五日に吉祥院秀巡が再興していることが記され、雌狐の包は明和二年一二月再興村中とある。これらの記録を見ると、当社は村持ちの社であったと伝えるが、天台宗吉祥院も何らかの関係があったものと思われる。
社殿は一間社流造りで、当社に現存する造営記録としては棟札が二枚あり、一枚は嘉永五年九月吉日のもので「正一位稲荷大明神」とあり、発起人は新井武兵衛・大河内嘉兵衛である。もう一枚は明治二七年のもので、「小屋直シ瓦屋根新築」と記されている。
合祀は大正元年八月二四日、新田の愛宕社と江川の浅間社を行ったと『明細帳』にあるが、これはすぐ戻され、現在でも耕地持ちの社として祀られている。(「埼玉の神社」より) |
神社・お寺情報 |
境内社:浅間社・愛宕社、御嶽山座王神社
境内掲示板
木野目稲荷神社本殿 付嘉永五年棟札一枚
(市指定・建造物)
木野目地区は九十川流域に位置し、かつては洪水に見舞われることも多く、当社は五穀守護の神として勧請されたといいます。
本殿は覆屋内の切石積基壇上に据えられた小型の一間社流造で屋根は板葺です。江戸末期に川越に流行する江戸彫を多用する本殿の一つですが、その中では建築自体の架構は比較的簡易な部類に属します。
この建築の一番の見所は、板壁にはめこまれた彫物です。左側面は鶴と翁 と唐子、右側面は亀を助ける浦島太郎、背面は天女と鳳凰と麒麟です。いず れも人物と背景、事物が程よく調和した江戸彫の優品で、背面鳳凰の下に「東都彫工元祖嶋村俊元八代嶋村俊表」の刻銘があります。嶋村家は俊元を祖とし江戸中期から関東で活躍した彫物大工の名家で、俊表は江戸末期に活躍し、 成田山新勝寺釈迦堂(成田市)、田無神社本殿(西東京市)、川越では氷川神社本殿(宮下町)を手掛けたことが知られています。
建立年代は棟札より嘉永五年(一八五二)と判明します。大工棟梁は忽滑谷粂造、小工は篠沢源造・根岸松五郎で、大工棟梁と彫物大工が分業していたことを史料的に裏付ける事例です。覆屋内にあって保存状態は良く、建築・ 彫刻の質は高く、彫刻は嶋村俊表の作品であることが明らかで、江戸末期に市内に流行する江戸彫を用いた本殿の一指標となる建築です。
平成十七年七月二十二日指定
川越市教育委員会
新編武藏風土記稿
入間郡木野目村
稻荷社 正一位仁壽稻荷ト號ス 村ノ鎭守ナリ 社內ニ牛頭天王ノ祠ヲ置 村民持 |
例祭日 |
|
神紋・寺紋 |
未登録
|
更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2024/08/04 17:52:05
|
※神社やお寺など日本文化の専門企業が算出している日本唯一のオリジナルデータですので、ご利用になりたい法人様やマスコミの方々は
こちらよりお気軽にご相談ください。
近くの神社・お寺
近くのお城
神社・お寺検索
※は必須です
※「神社・お寺両方」を選ぶと、一度に全て検索ができ大変便利です。プレミアム会員限定の機能となります。登録は
こちら。