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基本情報
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住所 |
埼玉県川越市砂久保66 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
東武東上本線新河岸 徒歩17分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
049-245-4138 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
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創建・建立 |
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旧社格 |
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由来 |
境内掲示板
砂久保稲荷神社本殿付天保十四年棟札(市指定・建造物)
砂久保は正保年間に開発された所で、当社は土地開発にともない正保二年(一六四五)に鎮守として祀られたのが始まりといいます。
本殿はやや小型の一間社流造で、屋根は板葺です。江戸彫を多用した本殿のひとつですが、ところどころに個性的な細部意匠が用いられています。身舎は台輪上に出組を詰組に配して梁桁を一手持ち出し、板支輪をまわして渦紋の彫刻をほどこします。妻飾は大虹梁上に拳鼻付の平三斗を組んで二重虹梁を架け、すぐ上に大斗と肘木をおいて化粧棟木を支えています。妻面は上下も左右も多少窮屈で、実肘木はほとんど接しており、大虹梁上の組物では垂木側で実肘木が切り落とされています。
庇は几帳面取の角柱を虹梁型の頭貫でつないで、出三斗を組み、中備に竜の彫物を飾ります。中備は正面から見ると普通の竜ですが、背面から見ると蟇股状になっている珍しいものです。身舎とは海老虹梁でつなぎ、手挟を添えます。海老虹梁は元と末の高低差が大きく、傾斜の急なものになっています。
一番珍しい意匠は破風につけた懸魚でしょう。稲穂と瓢箪のように見え大変珍しい意匠です。身舎壁面に飾る江戸彫彫刻は、左側面が鍬かつぐ童子、右側面が雲中を駆ける麒麟、背面が稲穂のまわりを飛び交う狐です。また、脇障子には唐獅子と牡丹を彫りますが、背面からも彫った丁寧なつくりになっています。
造営年代は棟札より天保十四年(一八四三)と判明します。この棟札は通常の駒型に取っ手をつけたような形状をしています。下部に切り落とすための墨線が引かれており、何らかの事情で切り落とすのを途中で取りやめにしたようです。棟札には各種職人の名が記されています。大工棟梁は並木村の篠澤定六、小工は今福村の仙造、絵図師は藤馬村の吉田市之丞、石工は藤馬村の清吉と砂新田の牛伝金左衛門です。棟札に絵図師の名前が記されるのは珍しく、建築の指図を引いた可能性もありますが、おそらく彫刻意匠の図を描いたのではないでしょうか。
平成十九年八月十日指定
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神社・お寺情報 |
砂久保陣場跡(市指定・史跡)
砂久保陣場跡は、戦国時代に扇谷上杉氏、山内上杉氏、古公方足利氏の連合軍と小田原北条氏が河越城をめぐり戦ったときに陣が張られた場所です。
関東の戦国時代は、享徳三年(一四五四)、鎌倉公方足利成氏が関東管領山内上杉憲忠を謀殺した享徳の乱から始まります。成氏は、古河に移り古河公方を称し、山内上杉氏と扇谷上杉氏と対立しますが、この三者はその時々敵味方を換えながら合戦を繰り返していきます。明応二年(一四九三)、伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆の堀越公方を滅ぼし、その子氏綱の代には小田原を拠点に相模、武蔵に進出して両上杉氏と敵対するようになります。
河越城を本城とする扇谷上杉家では、天文六年(一五三七)、朝興が没し朝定が跡を継ぐと、父の遺言に従い勢力挽回を掛けて北条氏を攻めますが反撃され、逆に河越城を失うことになります。その後天文十年(一五四一)北条氏の代替わりに乗じて朝定は、河越城奪回を企てますが失敗します。
単独で北条を追い払うことができないとみた朝定は、山内上杉憲政と手を結び、氏康が駿河今川氏との対戦のため駿河国境に出陣中の隙を衝いて、天文十四年(一五四五)九月二十六日、河越城に向けて侵攻し、同城を包囲します。北条方の河越城では、北条綱成(氏康の義弟)と同宗哲(氏康の叔父)が守将を努め、籠城戦を展開します。両上杉氏は、戦いを正当化するために古河公方足利晴氏(妻は氏康の妹)に出陣を懇願し、十月二十七日に上杉軍に迎えます。こうした状況に対し氏康は、河越城の死守を優先し駿河からの全面撤退と引き換えに今川氏と和睦を成立させ、十一月初め頃に小田原に帰陣します。河越城は籠城したまま年を越します。
天文十五年に入ると氏康は、足利晴氏に城兵三千人の助命嘆願をしますが拒否されます。しか し三月初めに扇谷上杉氏の宿老で岩付城の太田全鑑を離反させ味方に引き入れられたことで、氏康は四月十七日に出陣に踏み切り、砂窪(砂久保)に着陣しました。そこで足利晴氏に再度城兵の助命を懇願しますが、取次ぎを拒否されると、四月二十日、上杉憲政が氏康陣所の砂窪に攻めかかります。氏康は劣勢を跳ね除け、これを迎撃するとともに、城内からは綱成らも撃って出て、両方面で北条方は勝利します。その結果、上杉憲政は平井城に、足利晴氏は古河に敗走し、扇谷上杉氏は当主の朝定とその重臣難波田善銀が戦死し滅びます。
一般には「河越夜戦」と伝えられ、城兵三千と援軍八千の北条軍が、連合軍八万とも六万五千とも云われる大軍を闇夜に乗じて奇襲し破った合戦とされていますが、兵の数には後世の誇張があり、また実際には奇襲戦ではなく迎撃戦であったようです。
いずれにしろ、この時の合戦によって北条氏の関東支配が優位に展開し始めたという意味では、 関東の戦国史を語る上で貴重な合戦であったことはまちがいありません。
昭和三十三年三月六日指定
川越市教育委員会
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例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】たくちゃん
【
最終
更新日時】2021/01/23 09:04:10
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