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瑠璃光山金寶院三福寺
埼玉県坂戸市小山259
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基本情報
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住所 |
埼玉県坂戸市小山259 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
東武越生線一本松 徒歩34分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0492817605 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御本尊 |
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宗派 |
浄土宗 |
創建・建立 |
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由来 |
境内掲示板
瑠璃光山金寶院三福寺の概況
この寺のはじめは大同元年(八〇六)医師小山宗仙が東方飛来と称する薬師如来御尊像を安置したことにはじまると云う。後に源満仲(武蔵守)が正暦年中(九六〇)此の地に大伽藍を構へ堂塔を建立し家臣卜部太夫貞武に命じて薬師佛を守護させたといいその後、源の後裔足利尊氏の強い薬師佛信仰から庇護を受け寺は繁栄し将軍より田畑二十五町歩の寺領を下賜されたとある。この時正平七年(一三五二)初めて三福寺と寺号をつけたと記載されている。その後天正十八年(一五九〇)豊臣勢上杉景勝松山城攻略の折兵火にかゝり焼寺多く宝物を焼失したと云う。
その後幾度となく盛衰を繰り返したが天明年間普請奉行本郷大和守泰行の力を得て当山第九世對譽上人が約十五ヶ年の歳月を以って寛政八年十二月(一七九五)本堂並に庫裏を完成したのである。
現在は浄土宗鎮西派に属し埼玉縣下希にみる古刹寺院である。
境内碑
三福寺縁起碑
當山は瑠璃光山金寶院三福寺と號し人皇第五十代桓武天皇の御宇延暦二十四年大同元年の開基に係り爾来壱千百六拾有余年の星霜を経た浄土宗鎮西派の古刹であり御本尊薬師瑠璃光如来はその霊験灼らたなること普く人口に膾炙しているところである昔この里に小山宗仙という医師あり厚く薬王善逝を信仰し茅舎に御尊体を安置して日夜懇祷していたが里人の協力により草庵を建立して薬師佛をここにお還し申し上げた爾後一條天皇御宇正歷年間多田満仲大内守護職にあり東國の押えとして入間の里に館を構え家臣卜部大夫貞武に薬師佛の奉護を命じた貞武薬師佛を尊崇すること篤く満仲に上申して宮殿荘厳具等に修理を加え種々の什物を奉納したと伝えられる正平七年夏天下に大旱魃あり郷民その窮状を幕府に上訴した時の足利將軍はその皈依していた光譽一空上人に命じて薬師如来の寶前に祈念させたところその驗灼らたなるものがあったので將軍は薬師佛の霊應を崇び聖の名譽を感じて田畑二十五町歩賜わるという御教書を下付された一空上人は上意を尊び伽藍を増営し初めて三福寺と號しここに一山の体裁を整えるに至った
第百八代御陽成院御時天正十八年の春豊臣秀吉東伐のおり兵燹に罹り惜しくも大殿燓焼したがその際誰一人お遷し申上げた者がいなかったのにかかわらず薬師佛御尊体は境内の老松の上に避難されたと伝えられている今でも背後は黒焦げとなっていて当時を追想させられるものがあり以来秘佛として崇め宮殿の御開扉が稀れであるなほこの際の祝融で多田足利両家奉納の寶物御教書ならびに家臣師直等の書簡その他古誌ことごとく焼失した
その後徳川十代將軍家治の御時天明年間に中興対譽上人が焼失した伽藍の再建を企て約十五年の歳月を費して寛政八年十二月現在の本堂ならびに庫裡を造営した
因みに御本尊薬師佛は春日の御作と伝えられ埼玉縣重要文化財に指定されている
當山開基以来壱千百六拾有余年この間寺運に幾多の盛衰を見たるも今や時代の進展に伴いここに墓地新設を企圖したるところ昭和四十三年春裏山造機林壱千二百余坪を開墾克く檀徒各位の協力を得て同年十一月二十八日漸く完成を見るに至れり
ここに墓地完成を記念し三福寺縁起碑を建立し墓地新設工事に協力されし檀徒各位関係者の芳名をとどめ往生浄土の種因たらしめんことを冀ふところなり
維持 昭和四十五年四月十六日壱
瑠璃光山三福寺第二十七世 孝譽海信
新編武藏風土記稿
入間郡小山村
三福寺 瑠璃光山ト號ス 淨土宗ナリ 本尊藥師立像ニシテ長四尺二寸春日ノ作ナリ 當寺起立ノ來由ヲ尋ヌルニ 元藥師堂ニテ一寺ニハアラス 其堂ノ草創ハ大同元年ナリト云 天正十八年火災ノタメニ此堂烏有トナリシニ 此藥師不思議ニ飛出テ火ヲ遁レケレト 半身ハ焦レタリト云フ 今其像ヲミルニ 背面ハスヘテ炭ノ如ク見ユ 其後元祿年中一寺トナリ川越蓮馨寺ノ末寺トナレリ 其中興セシ僧ヲ光譽一空ト云 |
神社・お寺情報 |
境内掲示板
木造薬師如来坐像 (三福寺の薬師さま)埼玉県指定文化財
「三福寺の薬師さま」として、古くから多くの村人に信仰されてきました。鎌倉時代に活躍した慶派の仏師湛慶の作と言われ、埼玉県内でも古い薬師さまです。
この薬師さまには、東の方角からこの地に飛んできたとか、戦国時代に戦火をのがれて松の木に飛び移ったなどの伝説があります。
江戸時代に書かれた縁起には、小山に住む宗仙という薬師如来を深く信仰している医師のところに、ある日、東の方から薬師如来が飛んできましたとあります。
このため、三福寺の薬師さまは、東方飛来薬師如来と呼ばれ、様々な悩みを救ってくれる仏様として信仰されてきました。
戦国時代の永禄五年(一五六二年)に、小田原の北条氏と甲斐武田氏の連合軍が松山城に押し寄せて来ました。そのときの戦いで、薬師堂も兵火にかかり焼失してしまいました。薬師さまは、境内にあった松の木の上に飛び移り、火災の難を逃れたそうです。そのためか、薬師さまの背中と右頬に焼けどのあとが残っています。
鎌倉時代に活躍した、慶派の仏師湛慶の作像と伝えられています。檜の寄せ木造りの坐像で、像の高さは八〇cm、全身を漆塗りで覆い金箔が施されています。左手に薬壺を載せ、右手は手のひらを前に向け、指先が天上を指すように結ばれています。
江戸時代には、三福寺の本尊として広く庶民の信仰を集めて来ました。
平成十九年三月
坂戸市教育委員会 |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2025/08/16 15:25:09
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