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住所 | 埼玉県坂戸市北大塚坂上138 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス | 東武東上本線坂戸 徒歩23分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | |
FAX番号 | |
公式サイトURL | http://ishigami-jinja.jp/index.html |
御祭神 | |
創建・建立 | |
旧社格 | |
由来 | 境内碑
石神神社の由来 石上神社の起源については詳らかではないが木下宮司の家に傳わる古文書に依れば此地は古くは武蔵國入間郡三芳野の里大塚村と言ひ古墳を氏神塚として尊崇して来たが嘉元二年(一三〇二)の頃氏神塚の下の川の深い渕の中より漁師の手綱に再三掛った石を氏神塚に安置し当時中里郷の前にあった広伝寺のすすめによって石上明神としたものであると記されて居る。 後に川の流が南に変りその跡へ広伝寺が移り来って石上明神の別当職となり栄えたが天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉小田原攻城の際その手勢によって焼き払われ「これによって三芳野天神の堂宇尽く焼失せり」云々とあり爾来堂宇の再建中々成らず長い間雨風に晒されその為氏子の雪隠に屋根を葺かない習慣となり「大塚の屋根なし雪隠」と云ふ言葉が生れる程であったと云ふ。これについて県文化財保護委員大護八郎氏は「初めは三芳野天神であり焼失後再建され勧請されたものが石上明神である事は明らかである」と指摘して居る。拜殿正面に掛る「石上宮」の神号額は全徳寺第七世國水伝春が明和四年(一七六七)揮毫し篆刻奉納したものである。 文化六年(一八〇六)坂戸宿棟梁高山兵部藤原師美の手によって拜殿が作られた。何時の頃からか子授安産の神として尊崇され春秋の祭典には近隣より参詣の人々群をなし俗に「押上様」と云われる程栄えたと云ふ。 大正十五年春屋根の葺替えを行い昭和六年柏槙の天然記念物指定により後方へ約二米程引き昭和三十五年本殿覆殿の根継ぎを行ひたるも拜殿の破損著るしく昭和五十二年遂に解体しこれを再建しようとする氏子の熱意により内外より多額の浄財の寄進を得て精緻を極めた彫刻類は悉く使用し坂戸市仲町安斉利一氏の手に依って昭和五十三年十月竣工したものである。 昭和五十五年(一九八〇)四月 氏子中 新編武藏風土記稿 入間郡大塚村 石上社 神體ハ長四尺橫一尺許ノ赤キ石ナリ 相傳フ此社地ノ下ハ昔高麗川ノ流通セシ所ニテ 此ノ神體ハ川中ヨリ出シモノナリト云 カヽル石ハイクハクモ有ヘキモノナルニ イカナレハ殊更ニハ祀リケン 其故ヲ傳ヘス 今村ノ產神トス 社ノ建ル所ハ登リ二十間許ナル丘ノ上ナリ 明學院持ナリ |
神社・お寺情報 | 境内掲示板
入西のビャクシン 埼玉県指定天然記念物 樹高十二メートル、幹周り約三・五メートル、直径約一メートルで、幹が右回りにねじれていることから、「ねじれっ木」と呼ばれて、大切にされています。昔、徳の高いお坊様が、地面に突き立てた杖が根付いたと伝えられています。 ビャクシンはヒノキ科ビャクシン属の常緑針葉高木で、イブキ、イブキビャクシンなどと呼ばれています。 昭和六年に埼玉県の天然記念物に指定され、当時の入西村の地名をとって、「入西のビャクシン」と名付けられました。 ビャクシンは、臨済宗の寺院に多く植えられており、臨済禅宗と密接な関係にあったようです。 現に湯河原の城願寺、北鎌倉の建長寺、川口の長徳寺などに見られます。 入西のビャクシンの近くにある成願寺は、臨済宗の僧・乾峰士雲が開いたと伝わる寺です。乾峰士雲は、文和四年(一三五五)に鎌倉五山の建長寺・円覚寺の住職を兼ねた高僧でした。 現在、この地は、石上神社の境内になっていますが、もとは成願寺の境内だったと考えられます。 成願寺創建にちなんでビャクシンが植えられたとすれば、文和四年以後のことで、樹齢六五〇余年となると考えられます。 入西のビャクシンは、天然記念物としてだけでなく、歴史の証人としても生き続けているのです。 平成二十五年二月 坂戶市教育委員会 |
例祭日 | 10月15日 |
神紋・寺紋 | 未登録 |
更新情報 | 【
最終
更新者】thonglor17 【 最終 更新日時】2024/10/05 08:41:38 |