3.5
天龍山本乗院徳性寺
埼玉県ふじみ野市大井954-1
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(thonglor17さん)
おすすめ度:
★★★★
0
 58
参拝日:2022年6月18日 08:39
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(たくちゃんさん)
おすすめ度:
★★★
0
 85
参拝日:2021年1月18日 00:00
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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県ふじみ野市大井954-1 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
東武東上本線ふじみ野 徒歩17分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0492611997 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御本尊 |
阿弥陀三尊像 |
宗派 |
天台宗 |
創建・建立 |
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由来 |
境内掲示板
徳性寺
天台宗天龍山本乗院徳性寺は、川越市古谷の灌頂院の末寺で、伝承によれば、室町時代に秀山律師により開かれたという。一時、寺勢が衰えたものの、江戸時代前期、第十四世祐円和尚(万治三年・一六六〇年没)により中興された。明治十四年(一八八一)一月一六日の大井町の大火により本堂・庫裏などの建造物とともに当寺の歴史を記した記録も失われてしまった。
現在の本堂は昭和四十八年(一九七三)に、庫裏は平成二〇年(二〇〇八)に建てられたものである。
本尊は、室町時代のものと考えられる阿弥陀三尊像である。本堂には江戸時代初期に大井を領地とした旗本の米津彦七郎の位牌(天和二年・一六八二没)がまつられている。また本堂裏手の墓地には歴代住職の墓塔のほか、元和九年(一六二三)銘の五輪塔(新井家墓地)があり、寺の歴史の古さを今に伝えている。
山門は、明治二十五年(一八九二)に移築されたもので、川越の南院(廃寺)のものとも川越城の遺構であるとも言われている。この山門の脇には、坂上(小字東台)近くの石塔畑と呼ばれる場所から出土した弘安四年(一二八一)の銘を持つ板石塔婆(市指定文化財)をはじめ二十数基の板石塔婆(板碑)や、川越街道の宿場「大井宿」の「下木戸」(江戸側の木戸)に立っていたとされる石の地蔵など、大井の歴史を物語る多くの石造物をみることができる。
また、当寺では昭和五〇年代(一九七五~一九八四)まで、遺骸を埋葬する場所(埋め墓)と墓塔を建てる場所(詣り墓)とが異なる「両墓制」を見ることができた。
平成十三年十一月 (令和四年三月改訂)
ふじみ野市教育委員会
境内掲示板
徳性寺
天龍山本乗院徳性寺と称し、天台宗比叡山延暦寺が本山である。本尊は阿弥陀三尊。開山である秀山律師は、貞治五年(一三六六)六月に、大福寺(現坂戸市)にて遷化している。
この寺は、大井宿の中心的な存在であったが、明治十四年一月の大火により本堂をはじめ寺のすべてを焼失した。現在の山門は、川越市の南院(現在は廃寺)から移築したものである。また、仮本堂として灌頂院から庫裡が移築されていたが、老朽化により解体され、昭和四十八年に本堂が、昭和五十三年に庫裡が新築された。
山門をくぐると左手に板碑と地蔵尊が安置されている。板碑は古坂と呼ばれる切通しから出土したもので南北朝期のものが多い市内最大最古の板碑は弘安四年(一二八一)のもので、古坂をのぼったところの石塔畑より出土。地蔵尊は大井宿南木戸からの移設で、柔和なお姿で市の変遷をながめている。
平成五年三月
埼玉県
ふじみ野市
境内碑
徳性寺本堂落成記念碑
当寺は秀山律師なるものゝ開創する所と口碑に伝えられているが年代寺歴は不明
第十四世圓祐和尚が中興し万治三年に没する文献を見る事が出来る
思うに当寺の創立はそれより何百年か前ではあるが定かでない
その后明治六年町の大火に依り本堂庫裡を焼失し三代に亘って再建を計画致したが日清日露加えて第二次大戦に遭遇してその機を見る事が出来ず今日に至った
然し乍ら堂宇の再建は止み難く宗祖伝教大師の御生誕千二百年を期に全国に繰り広げられた一隅推進運動の一環として一寺一願を目標に発案され建設委員会が結成檀信徒各位の賛同を得 昭和四十六年二月着工 同四十七年七月約一年半に及び完成された
過去の寺歴から考え合せ鉄筋建築と致した
宗祖の御生誕と二重の記念すべき年に当り 益々寺院活動に専念し人材の育成に努力致すものである
昭和四十八年四月二十九日
第三十四世賢者敏一謹書 |
神社・お寺情報 |
新編武藏風土記稿
入間郡大井村
本乘院 天臺宗古尾谷本鄕灌頂院ノ末ナリ 天龍山德性寺ト號ス 彌陀ノ立像ヲ安ス 觀音堂 行基菩薩ノ彫セル像ヲ本尊トス
境内掲示板
ふじみ野市指定文化財 考古資料
弘安の板碑(板石塔婆)
昭和五十三年四月一日指定
この板碑は、高さ一一七cm、幅三一cm、厚さ三cmの大きさで、元(現在の中国)が北九州博多に侵攻した弘安の役(元寇)が起きた弘安四年(一二八一年)の銘が記されている完形品である。鎌倉街道と伝えられる古道に面した「坂上の石塔畑」と呼ばれる場所(東台)から出土し、徳性寺境内に移されたという。「大井町念仏講中」と刻まれた台座は後世のものである。
板碑とは、鎌倉時代から室町時代を通して板状の石で造られた供養塔で、「板石塔婆」、「青石塔婆」、「ばんび」、「いたぼとけ」とも呼ばれ、日本全域に分布している。埼玉県内の板碑の多くは青緑色の緑泥片岩(結晶片岩)で造られており、この板碑も同じ材質である。
板碑の歴史的な価値は碑面に刻まれた記録にあり、その中でも種子(梵字) を見れば仏の種類がわかり、造立者の信仰が知られる。この碑面の種子には「 」が刻まれて阿弥陀仏を表現し種子の下には蓮座を刻んで礼拝の対象としていたことがわかる。この板碑造立の頃には、最も大型で厚いものが多く、形式が整い、意匠が秀抜で、梵字の書体も企画的、かつ彫法に鋭利な力強さが認められ、中には在地領主層の造立と考えられるものがある。この板碑もその一つである。
中世の史料が少ないふじみ野市にとって、板碑の分布から集落の状態、梵字による宗教の種別と信仰状態、石材を入手するための交易の範囲などをうかがえる貴重な資料として、この板碑のもつ意義は大きい。
平成十九年三月
ふじみ野市教育委員会 |
例祭日 |
|
神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2024/01/08 18:57:07
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