後醍醐天皇導きの稲荷 参拝記録 (天地悠久さん)
金峯山寺蔵王堂の手前傍らに鎮座。社頭案内板には「北朝方との対立が激しくなって、やむをえずひそかに京都の花山院を脱出された後醍醐天皇は、延元元年(1333年)吉野山の行宮にお着きになることができました。途中夜道に迷われたとき、とある稲荷社の前で『むば玉の 清き闇路に 迷うなり 我にかさなむ 三つのともし火』とお詠みになると、ひとむらの紅い雲が現れて、吉野への臨幸の道を照らしてお導きをし、その雲は金の御岳(吉野山)の上で消え失せたといいます。(吉野拾遺)その稲荷を勧請したのがこの「導きの稲荷」です」と。「京都の花山院」から「吉野山の行宮」のどこかで、稲荷社を拝したと。また文面の総合的な判断から、「金の御嶽の上で消え失せた」とあることから、吉野辺りの稲荷社であろうと。勧請元は不明。大和国添下郡の源九郎稲荷神社が当社から勧請されたという説あり。吉野町菜摘に鎮座していたのを、豊臣秀頼公が現社地に移転遷座。可能性は十分にあるかと考えています。
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