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基本情報
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住所 |
和歌山県田辺市中芳養803番地 |
五畿八道 令制国 |
南海道 紀伊 |
アクセス |
JR紀勢本線芳養 徒歩33分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0739-23-1770 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
(主祭神)誉田別尊 息長足姫命 玉依姫命 海津命 (配祀神)高靇神 闇靇神 水波能女命 素盞鳴命 宇賀魂命 大日霊女貴命 武内宿弥命 八島士奴美命 速秋津姫命 伊吹戸主命 瀬織津姫命 火産霊命 大物主命 市杵島姫命 速佐須良姫命 |
創建・建立 |
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旧社格 |
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由来 |
社伝によると陽成天皇(八七六八八四)の御代に山城国石清水より勧請し以後二百八十余年を経て、後白河法皇御再興されたという。紀伊続風土記には「文治の頃(一一八五)年、鎌倉より地頭を置き領地を没収せんとせしかは、石清水の領家へ訴訟す、此時石清水より楠本荘司という者を遣はし領地を守護せしめ、はじめて勧請す」と記される。古く平安時代からあった芳養荘(石清水八幡宮領)の鎮守として鎌倉時代の正応二(一二八九)年二月に創建された由緒ある神社である。そのため室町時代にも領主湯川氏も当社に対して、田畑五町余と月々の神事料を寄進している。この時代には社殿の造営や当社の別当寺をはじめ末寺五ケ所が整えられたことが紀伊続風土記に記されている。なおまた同紀伊続風土記によれば、「本社末社十二社廻廊・鐘楼(中略)神主一人、社僧六人、早乙女七人、神楽男十二人」とあり社運隆盛であった。しかしその後、豊臣秀吉の紀州平定による口熊野の合戦の際、戦禍でことごとく焼失した。しかし再興にあたっては川辺領々主浅野左衛門佐氏重は、慶長十二(一六〇七)年御供米を寄付され仮殿も氏子によって建てられ、神主をはじめ社僧、神子も整った。元和五(一六一九)年領主安藤帯刀頼次も社領四石を寄進したほか造営材木も寄進され崇敬された。その後の領主安藤氏は和歌山から田辺に帰還される時は、自ら社参するか代参を遣わされる慣例になっていた。また享保九(一七二四)年には境内殺生禁止の証文を下附され、さらに安永八(一七七九)年には絵師に命じて絵馬を奉納している。領主をはじめ多くの人々に崇敬されてきたにもかかわらず、明治元年の神仏分離によって別当寺の撤去や社殿の縮小によって往時の盛観は全く失った。明治四年郷社(任田辺県)になったが明治六年四月に村社(任和歌山県)となった。社名も芳養八幡宮から八幡神社と改称された。同十年十月村内の神社(長屋谷の須佐神、阿坂の八幡神、西野々台の田中神、嶋ノ谷の稲荷神、古屋の皇太神、船山の蒼稲魂神、上芳養中谷の日向神社、同長曽の市杵島神社、同冬木の応仁天皇)を合祀した。さらに同四十三年には一村一社の神社合祀令から上芳養下芝の日向神社を合祀した。同四十年四月に幣帛料供進社に指定。大正三年二月には会計法適用社に指定された。(例祭)芳養八幡神社の祭礼は、往古八幡大神の勧請を模したものといわれ、馬祭りとしても近在に知られ、流鏑馬、駆け馬は終戦後も絶えることなく奉納されている。 宵宮祭は芳養浦海岸にて関係者百余名参列し、馬八頭の潮垢離行事がある。三日当日は、正午頃から神前祭や約二〇〇mの馬場に於いて、馬八頭の流鏑馬行事、神輿渡御、子供みこしや馬駆け行事が、古式にのっとり齋行される。 特に、馬当屋にては、往古からの封建色の型が今もなおつづいて居る。 例祭は、平成二年四月八日、和歌山県の無形文化財に指定されている。 |
神社・お寺情報 |
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例祭日 |
11月3日 |
神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】しおり
【
最終
更新日時】2018/02/18 21:42:21
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