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基本情報
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住所 |
埼玉県川越市的場1905 |
五畿八道 令制国 |
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アクセス |
JR川越線的場 徒歩4分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
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FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
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創建・建立 |
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旧社格 |
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由来 |
境内碑
三芳野天神社(天満宮) 縁起
この神社の創立は平安末期頃で、伊勢物語に出てくる入間郡「三芳野の里」の円墳三芳野塚の前に建てられたものである。菅原道真公が祀られており、別当は北條寺がつとめるようになった。
中世になりこのご神体を今の川越城中に移したけれども、神慮が旧地を慕われたため、元和六年(一六二〇)に再びこの寺の境内に移した。ご神体は厨子に入った印子の立像で長さが一寸八分あり、俗に「渡唐天神腹ごもり」と呼んでいる。そして渡唐天神は白壇香木で作った立像で、長さは八寸ある。「渡唐天神腹ごもり」というのは、この木造の腹部をくり抜いて青銅のご神体を内蔵するからである。
云い伝えによると永正元年(一五〇四)十月鎌倉管領上杉顕定の川越合戦のとき、兵火のため所在が不明になったことがある。ところが六十余年後を経たある夜、住僧の夢枕に立たれて所在を告げられたので、その塚に行ってみたところ、はたして夢想のように梅の木の下からうやうやしくも出現されたという。
残念ながら容赦ない都市化の波に踏みしだかれ、三芳野塚(現東急団地内第五公園附近)は姿を消してしまったが、遠い昔よりこの地において学問の神様として多くの人々に崇敬をうけてきた。
祭祀 每年一月二十五日
その他 お札・お守り・絵馬は法城寺にあります
的場山法城寺
新編武藏風土記稿
高麗郡的場村
法城寺 的場山ト號ス 曹洞宗鯨井村長福寺末 此寺往古三芳野塚ノ傍ニアリテ三芳野山寶常寺ト唱ヘシニ 何ノ頃ロリカ山號ヲ改メ寺號ヲ書替シト云 基立ノ年詳ナラス 中興開山撫州舜道正保三年七月廿五日寂ス 開基ハ神山七左衞門ナリ 寬文八年九月四日沒ス 本尊ハ正觀音ヲ安ス 緣起ノ畧ニ曰、法成寺者、則三芳野天神若宮八幡兩宮之別當、而古代三芳野塚麓有之幾年歷事不審上古大道寺家落城之時及廢壞事久、時本寺長福寺三世、撫州和尙當寺中興、則今開山也、此時神山七左衞門開基成建立、其時三芳野塚之天神宮境內移、寺地四段四畝二步、天神宮地一段二畝、若宮八幡宮地五畝六步、到今御除地也、當所本名三芳野也、大道寺家上戶居城之頃、當地弓鐵砲武術之稽古場也、故里人皆的場的場云、依之後後的場村成、三芳野塚麓池有、天神御手洗是三芳野初雁池也、謂雁此國初來、地上三度飛回初鳴云傳、又此池常櫻花水底浮故是櫻池共云傳也
天神社 境內ニテ謂ユル三芳野天神是ナリ 此ノ神體ヲ中頃今ノ川越城中ヘ移シタリシニ 神慮舊地ヲ慕ヒ給フニヨリ元和六年再ヒ當寺ノ境內ニ移スト云 神體厨子入ニテ印子ノ立像長一寸八分 コレヲ渡唐天神ノ腹籠トス 渡唐天神ハ白檀香木モテ作レル立像ニテ長八寸ナリ 傳云フ 永正元年十月鐮倉管領上杉顯定川越合戰ノトキ兵火ノタメニ所在ヲ知ラス 成スルニ六十餘年ヲ經テ或夜住僧某ノ夢枕ニ立給ヒ所在ノ吿アリシユヘ彼塚ヘ往テ見ニ夢想ノ如ク梅樹ノ下ヨリ恭シクモ出現シ給フトナリ |
神社・お寺情報 |
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例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2024/12/21 22:04:39
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